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エレミヤ書第15章16節

「あなたの言葉が見いだされて、わたしはそれを食べました.あなたの言葉はわたしにとって、心の楽しみ、また喜びとなりました.エホバ、万軍の神よ、まことに、わたしは、あなたの御名によって呼ばれているのです」。

 

聖書の全体的な啓示によれば、神の言葉はわたしたちが食べるのによく、わたしたちはそれを食べる必要があります(詩119:103.マタイ4:4.ヘブル5:12-14.Ⅰペテロ2:2-3)。神の言葉は神聖な供給であり、食物としてわたしたちを養います。わたしたちの食物としての言葉を通して、神は彼の豊富をわたしたちの内なる存在の中へと分与してわたしたちを養い、わたしたちが彼の要素で構成されるようにします。これは神のエコノミーの重要な面です。わたしたちが神の言葉を食べるとき、彼の言葉はわたしたちの心の楽しみ、また喜びとなります。

詩篇第119章15節

「わたしはあなたの教訓を思い巡らし、あなたの路を重んじます」。

この言葉の意味は豊富で、「思い巡らす」のヘブル語の言葉は、礼拝すること、自らと会話すること、大声で語ることを暗示します。言葉を思い巡らすとは、注意深く考察することを通してそれを味わい、享受することです。祈り、自らに語ること、主を賛美することも、言葉を思い巡らすことに含まれるでしょう。神の言葉を思い巡らすことは、彼の息としての言葉を享受し(Ⅱテモテ3:16)、こうして神を注入され、神を吸い込み、霊的な養いを受けることです。

ヨハネによる福音書第15章4節から5節

4「わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない」。
5「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである」。

神が人と持つことを願っている関係は、神と人が共に接ぎ木されて、有機的な結合の中で一となることです。接ぎ木された命は交換された命ではなく、人の命と神聖な命とのミングリングです。接ぎ木において、二つの似た命は結合されて、共に有機的に成長します。わたしたちの人の命は神のかたちに、神の姿にしたがって造られたので、神聖な命に結合されることができます。わたしたちの人の命は神聖な命と似ています。ですから、神聖な命と人の命は共に接ぎ木され、共に生きることができます。わたしたちは命の木としてのキリストの中へと接ぎ木されており、この接ぎ木はわたしたちを彼と一にします。キリストと信者たちは一本の木です。彼はぶどうの木であり、わたしたちはその枝です。わたしたち再生された者は、キリストの中へと接ぎ木されているので、接ぎ木された命を生きる必要があります。両者はこの命の中で結合されて有機的に成長します。

ピリピ人への手紙第3章10節

「キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて」。

 

キリストを知る

パウロは、彼自身の義ではなく、神からの義を持つ状態の中に生きました。それは、キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりを知る(経験する)ためでした。8節(8節)の、キリストを知る知識の卓越性を持つことは、啓示によります。しかし、ここでの彼を知ることは、経験―キリストの経験的な認識を持つこと、キリストを知る十分な知識の中で彼を経験することによります。パウロはまず、キリストの啓示を受けました。次に、キリストの経験―経験的な方法でキリストを知り、享受することを求めました。

キリストの苦難の交わりを知る

これは、キリストの苦難にあずかること(マタイ20:22―23.コロサイ1:24)、彼の死に同形化されることによって、彼の復活の力を経験するための必要条件です(IIテモテ2:11)。パウロは、キリストご自身の卓越性だけでなく、彼の復活の命の力と苦難にあずかることをも、知り、経験することを追い求めていました。キリストには、苦難と死が先に来て、復活が続きました。わたしたちには、彼の復活の力がまず来て、彼の苦難の交わりと彼の死に同形化されることが続きます。わたしたちはまず、彼の復活の力を受けます。次に、この力によって彼の苦難にあずかり、彼の死に同形化され、十字架につけられた命を生きることができます。そのような苦難は、おもにキリストのからだを生み出し、建造するためです(コロサイ1:24)。

キリストの死に同形化される

これは、キリストの死を生活の鋳型とすることです。パウロは、キリストが彼の人の生活で生きられたように、絶えず十字架につけられた命、十字架の下の命を生きました。そのような命を通して、キリストの復活の力が経験され、表現されます。キリストの死の鋳型は、キリストが絶えず彼の人の命を死に渡して、神の命によって生きられた経験(ヨハネ6:57)を言います。わたしたちは人の命に死に、神聖な命を生きることによって、わたしたちの生活が、そのような鋳型に同形化されなければなりません。キリストの死に同形化されることは、彼と彼の復活の力と彼の苦難の交わりを知り、経験する条件です。

The Church in Sapporo