雨

どのようにして神を礼拝するか

ヨハネによる福音書第4章23節から24節 

   23 しかし、真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝する時が来る.そしてそれは今である.父はそのように彼を礼拝する者を、捜し求めておられるからである。
    24 神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。

伝統は人の渇きを満たすことができない

 ヨハネによる福音書第四章のヤコブの井戸は、何を表徴するのでしょうか? それは、伝統は人の渇きを満たすことができないことを表徴します。わたしたちはみな、水は人の生活に欠くことのできないものであることを知っています。水は食物よりも重要です。なぜなら、渇きは飢えよりも深刻であるからです。あなたは食物なしに数日間を過ごし、なお生きているかもしれませんが、水なしに同じほど過ごすことはできません。旧約聖書には、水が人の生活にとっていかに重要であるかを示す多くの物語があります(創世記21:15、19、出エジプト記15:23-24、27、17:6、民数記20:8)。聖書には、渇きをいやす水が人に必要なことの記録が、何度も見いだされます。ヤコブの土地にあるその井戸は、伝統的なものは人の生活における渇きをいやすことはできないというしるしです。伝統はいかに真の、典型的なものであっても、それが伝統である限り、人の渇きを満たすことはできません。これが、ヨハネによる福音書第4章におけるヤコブの井戸のしるしの意義です。

 わたしたちの井戸はヤコブの井戸、伝統的な井戸ではありません。わたしたちの井戸は神の御子です。わたしたちは彼を受け入れました。そして彼はわたしたちの内側で湧き上がる水の源泉となり、永遠の命へと至ります。彼がわたしたちの内側で湧き上がる時、わたしたちは永遠の命へともたらされます。主がわたしたちの内側でこのように湧き上がることが、わたしたちの渇きをいやします。わたしは、彼は何度もわたしの内側で湧き上がると、証しすることができます。彼がわたしの中で湧き上がる時はいつも、わたしは永遠の命の中へともたらされ、わたしの渇きは満たされます。

 わたしたちは、真に聖書を愛していると証しすることができます。しかしながら、わたしたちは伝統的な方法で聖書を愛するのではありません。その反対に、わたしたちが御言を愛するのは、その中で神の御子の生けるパースンに会うことができるからです。彼は永遠の命を伴う神の真の賜物です。

霊と真実の中での礼拝

 わたしたちが見るべき極めて重要な点は、主イエスがサマリア人の女に、真の礼拝、父なる神が求めておられる礼拝は、ある山の上にあるのではなく、人の霊の中にあることを告げられたことです。「女よ、わたしを信じなさい。あなたがたがこの山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来ようとしている……神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」(ヨハネ4:21、24)。旧約聖書のシオンの山、すなわち神の住まいの場所と神の御名の場所は、人の霊の予表でした。新約聖書によれば、神の住まいはどの山の上にも、天にさえありません。むしろ、神の住まいは人の霊の中にあります(エペソ2:22)。実は、人の霊が神の住まいであり、また神の御名の場所です。もし他の場所に行って神を礼拝するなら、これは、わたしたちが神の御名を放棄したことを示します。わたしたちが神の御名の中に守られることができるただ一つの場所があります。その場所はわたしたちの霊です。わたしたちは霊に来るとき、神の御名を守り、また彼の御名の中で守られます。霊の中で御父を礼拝する時、わたしたち自身のためにどの名を取るべきでしょうか? わたしたちはいかなる名も取るべきではありません。御父への真の礼拝、彼が願われる礼拝は、シオンの山での礼拝で予表されるように、わたしたちの霊の中での礼拝です。

(「ヨハネの文書における幕屋とささげ物の成就 」第14章、第15章より抜粋 JGW日本福音書房)

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